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書籍レビュー/翻訳関係/etc.

呉座勇一『一揆の原理』

苦役に苦しんだ農民が竹槍を手に支配層を襲う…というありがちな「一揆」のイメージを覆す本。筆者は1980年生まれの日本史学研究者で、本書は博論の書籍化ではなく最初から一般向けに構想された本である。そのため、おおまかなテーゼはたいへん分かりやすい。非専門の立場でまとめてみると、

 

  1. 一揆は近世(江戸)ではなく中世(とくに南北朝・室町・戦国の中世後期)にこそ盛んだった
  2. 一揆は暴力による体制転覆の企図ではなく、被支配者が(基本的には)非暴力的に支配者と係争する方策であり、一定の形式をもつ「訴え」=「強訴」であった
  3. 一揆の根幹にあるのは蜂起行為ではなく、目的へ向けて人と人とを結びつける関係性の構築とその論理である

 

というのが主なところであろう。こうしたテーゼの背景にあるのは、一揆階級闘争として扱い、その実像を明らかにしなかった戦後のマルクス主義的歴史学への反論である。随所に現代語訳つきで史料が提示され、ある程度知識のある読者の好奇心にも応える内容ではないだろうか。その反面、史観の議論はかなり縮約されており、その是非を判断する立場にない読者には、もう少し枝葉を知りたい、読みたいと思ってしまうところもある。

 

ところで筆者が書いているように、本書は「3.11」「アラブの春」といった経験を契機として、SNS全盛の時代を生きる同時代の読者に対して、かなり時事的なモチベーションをもって書かれた本である。その点でいわゆる歴史学の研究書にとどまるものではなく、史実や史料を扱う考証の随所に、現代日本や世界の情勢についての考察が挿入される。日本でいえば、60〜70年代の安保闘争や近年の反原発、安保法制反対のデモについて、世界でいえばジャスミン革命アラブの春などの話題である。

一読した感想としては、残念ながら筆者が行っている緻密な歴史研究がうまく現代への問題提起に結びついているとは思えなかった。たとえば筆者は終章において

デモがイマイチ盛り上がらない理由は色々と考えられるが、その一つとして、脱原発デモも戦後日本の諸々のデモと同様に、結局は「百姓一揆」の域を出ていない、ということが挙げられるだろう。(p. 226)

と述べる。ここでいう「百姓一揆」とは、筆者が分析の結果として提示する、既存の社会秩序を否定せずに武士への「待遇改善要求」を行う係争の形式=強訴としての一揆である。筆者は、その運動が失敗する理由を、こうした一揆的な方法には長期的な展望がなく、解決をお上に頼りつつ「デモの圧力によって無理難題を強要しているから」だという。つまり、社会変革のイニシアチブを取ることが目的ならば「デモ(強訴)という形式そのものが、現代の日本社会において有効性を失いつつあるのではないか」(p. 228)というわけである。

そこで、筆者は一揆のもうひとつの側面、すなわち運動のためにある種の契約によって人と人とを結びつけてゆくというネットワークの側面に注目する。そうした人と人とのつながりこそが、SNSによって発生する「新しい社会運動」の時代には重要であり、運動としての可能性を秘めているのではないか、という趣旨だ。

つまり筆者は一揆の限界と可能性を指摘しているのだが、分かるようで分からないような論旨である。まず、私見であるが現代日本のデモが、何らかの「要求」であると考えて参加する者は少ないのではないかと思う。「要求」であるならば、その延長には「強要」や「暴力」が存在するだろう。しかし、おそらく多くの場合、現代日本のデモ行列に加わる理由はある思いを周囲に明らかにし、それを共有し相互に確認するためではないか。つまり、デモ自体がネットーワーク形成の舞台として機能しているのではないかという気がする。たとえば何らかの投票行動を呼びかけるとき、それは明らかに体制への要求ではなく、意志を共有することへの誘いかけであり、国民全体への呼び掛けである。

また、デモは当然、集団による為政者への意思表示でもある。シュプレヒコールを唱和するのは、直接的な要求とは別のレベルで為政者を批判し、信任に応えるよう求めるためである(そのためには、為政者にも正常な感受性が要求されるのだが…)。民主主義において、国民の意思表示の手段が立候補や投票に限定されないということはあえて指摘するまでもないだろうが、デモが政治的要求の実現手段として「有効ではない」と断ずるのはあまりにも一面的な評価だろう。近代以降の(日本を除く?)民主主義社会において、直接性と無縁なデモンストレーションが成果を挙げている事例は豊富にある。日本でそれが有効ではない、というならば、その日本的問題の根源はどこに求めるべきなのか。本書を読む借り、その淵源が「一揆」という訴えの伝統にあるとは思えなかった(おそらく、本書が一揆側の分析に重点をおき、訴えの対象となる為政者側の論理について解説していないからだろう)。

筆者によれば、一揆は、秩序そのものを打ち壊すことなく、被支配者の側から圧政や苦役に対処するための係争手段であった。そして、それは日本史上のある期間において、有効であった。権力者との馴れ合いであるからこそ、「百姓一揆」は破局を回避しつつ、権力者の対応を促すことができたのだ。筆者があり得べきと考える新しい社会運動が、はたしてどのような形で一揆と関連していて、それがどのように「百姓一揆」を越えてゆくのか、いまひとつ分からなかったというのが正直なところだ。

 

余談

本書の内容には直接関係ないですが、「カラス文字」って面白いですね。こんなものがあるとは…。