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書籍レビュー/翻訳関係/etc.

渡邊恵太『融けるデザイン』:内容の前に

 

内容の前に、気になることがあったので指摘しておく。

この本をどれくらい真面目に読むべきなのかよくわからないが、ある程度読まれている本ではあるようだ。なので、重箱の隅をつつく物好きがいてもいいだろうと思う。ここで挙げるのは形式的な問題だが、形式的でない問題もいくつかある気がする。

(この記事は、とりあえずのメモです)

 

問題その1:引用が不安だ

文献の引用がすこしいい加減。たとえば第3章 p. 73 で、著者はギブソン生態学的視覚論』を引いている。少し長いが、比較のため引用部をまるごと転記する。赤字はブログ主によるもの(以下同じ):

手を延ばして取ることは、接触するまで腕の形を伸ばして5本の突起のある手の形を縮小することである。対象が手の大きさならば掴める。大き過ぎたり小さすぎたりすると掴めない。子供は、把握との関係で大きさを視ることを学習する。つまり彼らは、自分たちの手のひらの幅とボールの直径を同時に見る。1インチ、2インチ、3インチの区別ができるよりずっと前に、向き合っている指で自分の尺度を、物差しによってではなく自分の身体と比例したものとして学習する。〔『融けるデザイン』pp. 73-74 におけるギブソンの引用〕

 

次に、被引用文献から同じ箇所を引く(ちなみに、著者は引用文献のページを記していないので探した):

 手を伸ばして取ることは、接触するまで腕の形を伸ばして5本の突起のある手の形を縮小することである。対象が手の大きさならばつかめる。大き過ぎたり小さ過ぎたりするとつかめない。子供は、把握との関係で大きさを見ることを学習する。つまり、彼らは、自分達の掌の幅とボールの直径とを同時に見る(Gibson, 1966b, 図7.1, p. 119)。1インチ、2インチ、3インチの区別ができるよりずっと前に、向き合っている指ではさむ格好の動作に対象が合っていることを見てとれる。子供は、大きさについての自分の尺度を、物差しによってではなく自分の身体と比例したものとして学習する。〔『生態学的視覚論』p. 249、下線は被引用文献のもの〕

 仮名遣いの変更はどうでもいい範囲なのだが、被引用文献で2文になっている赤字の部分が縮約されている。ちなみに、原書では以下の通り:

Long before the child can discriminate one inch, or two, or three, he can see the fit of the object to the pincer-like action of the opposable thumb. The child learns the scale of sizes as commensurate with his body, not with a measuring stick. 〔The Ecological Approach to Visual Perception, 1986/1979, pp. 234–235〕 

 邦訳文献の翻訳も優れているとはいえないが、『融けるデザイン』の引用があぶなっかしいことは理解いただけると思う。ほかに、ギブソンの同文献を引いた箇所で本来、

それは、方向づけられた移動との一種の相互作用である。〔『生態学的視覚論』p. 250〕

である箇所が

それは方向づけられた移動一種の相互作用である。〔『融けるデザイン』p. 189〕

となっているところもある。

ここまでは不注意にせよ意図的にせよ、それほど大きな問題はないかもしれない。しかし、次はどうか。

著者が、同じく『生態学的視覚論』を引きつつ「衝撃」を受けたという箇所(太字は著者がギブソンを引用している箇所、引用に付随する書誌の記述は省略。どうでもいいが、著者は本書のなかでしばしば「衝撃」を受けている):

手は触発されるものでも指令されるものでもなく、「制御される」ものだと考えるべきである。

 

これは、なかなか興味深く衝撃的なメッセージである。〔『融けるデザイン』p. 76〕〕

「なかなか興味深く衝撃的」…という表現の問題は措くとして、問題は引用部分。被引用文献では以下である:

手は、解発されるものでも指令されるものでもなく、制御されるものだと考えるべきである。〔『生態学的視覚論』p. 250、下線部は引用文献では傍点〕

著者が「触発」と取り違えているのは「解発」というタームである。論旨とは関係ないにせよ、やや不安になってくる。

 

きっとこの本はなにかの事情で十分に編集のチェックが入っていないのではないかと思う。たとえば、ウェブ上の邦語記事を引用した部分で、縦組にもかかわらず句読点がカンマとピリオドのままになっているところがある(はじめて見た)。

 

…………などと思ったのだが、ギブソンにせよ何にせよ、議論のための引用というよりは著者の論を展開するきっかけに過ぎないので気にすることはないのだろう。