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木簡学会編『木簡から古代がみえる』:文化財としての使用済みトイレット・ペーパー

今日、1月24日は「木簡の日」である。少なくともそう呼ぼうという話がある(

奈良)1月24日を「木簡の日に」 初の発掘記念しPR:朝日新聞デジタル

)。これは1961年の1月24日にはじめて木簡が発掘されたことに因んでいる。

たまたま、木簡学会が設立30周年の一環として刊行した本書を読んでいた。

本書は、20名弱の研究者がそれぞれの専門から研究動向を紹介する一般向けの書物である。古代史にさしたる関心がない者にはやや地味な内容と思えてしまうところもあるが、発掘から解読までのドラマには興奮を誘われる。

木簡は使用済みトイレット・ペーパーである

荷札などとして使用された木の札という程度の知識しかもたない浅学の身としては、本書が語る木簡が発掘されて日の目を見るまでに辿る命運は劇的である。

木の板に墨書して使用するということは、紙ではなく木を用いる理由があるためである。紙が貴重である、紙ではなく木の方が都合がよい…といったことだ。紙は、少なくとも7世紀ごろまでは潤沢に使用できる状態ではなかったと推測されている。そのため木の板が使用されるのだが、古代の人々は実に資源を大切にしており、木簡となる木の札も繰り返し使用されている。これは、表面を削れば再び使用できるという材料の特性をうまく利用した文化といえる。ただし、その利便性の版面、印影なども削れば捏造できるため、証文としての使途には限界があったようで、板を割って割符とする、印影を写した粘土を嵌め込むなどの工夫がされている。

そして、紙が貴重であるとすると、われわれが当たり前のように紙を浪費している場面でも木の板を用いることを想定しなければならない。

古代の木簡の大半は、排便のあと、お尻をぬぐう道具として再利用された上で捨てられたものであったのだ。〔p. 201〕 

 これは古代史では常識であったのかも知れないが、教科書以上の知識のない者としてはなかなかの驚きであった。

その解読作業も単調な道のりではない。モノとしての保存の技術、墨書を浮びあがらせる技術、文書として読むことを支える膨大な知見。そして、そもそも、それらがたった半世紀前にはじめて発見されたモノであったこと…。